日本を不幸にした藤原一族の謎

中臣鎌足百済の王子豊璋か?という仮説による律令整備〜藤原の世が出来上がるまでの解説
乙巳の変の直後、古人大兄皇子は蘇我入鹿が「韓人に殺された」と叫んだのは中臣鎌足が韓人だからではないか。終章には高松塚古墳に眠るのは石上麻呂古墳の造営年代と没年がほぼ同一,壁画の人物が持っていた蓋の色が儀制令の一位=深い緑のことから)とした上で日本の古くからの豪族物部氏の血を継ぐものを容赦なく痛めつける藤原が古墳に描かれた王者の象徴「玄武」を傷つけた上、被葬者の首を切り持ち去った締めくくっている。
物部氏、曽我氏と2大豪族が律令(と班田収授法)を確固たるものにするために提供した自らの領地が墾田永年私財法の施行などをへて藤原氏の荘園に変わっていく。
藤原北家の流れを持つ摂家近衞家の当主であり第34,38,39代総理大臣である近衛文麿天皇の前でも足を組んでいたそうな。同じ血が流れているから!?


日本を不幸にした藤原一族の謎

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